自己紹介
どうも真井良幸です。

このページでは、もう少し詳しく自己紹介したいと思います。
「なぜ、サロン経営者・コンサルタントなど『ひとりビジネス』の方に、マーケティングを教えする活動をしているのか?」
など、あなたに想いや考えに共感していただける部分があれば、と思ったからです。
実は、これには深い理由があるんです。
その詳細を聞いていただいた結果、「こいつとはまったく合わねーな!」って思われる可能性ももちろんあるわけですが、まあそれはそれで。
自己開示は好きな方でもないので、少し気恥ずかしい感じはするのですが、お付き合いいただけたらうれしいです。
少し長いですが、物語風に書いていますので、すんなり読んでいただけるかと思います。
凡人だと悟った学生時代
僕は名古屋市で生まれました。
実家は仕出しの弁当屋を経営。貧乏でもお金持ちでもなく、ごくごく一般的な普通の家庭で育ちます。

「有名になりたい」とか「金持ちになりたい」とかそういう願望もないですし、将来は経営者になるなんて、この頃はまったく考えていませんでした。
よく考えると、実家も自営業ですし、僕が知る限り、親戚も会社員がいません。
この環境が「自分で選択をして縛られない生き方もある」ということが、無意識に植え付けられていたのかもしれませんね。
子供の頃は成績もいたって平凡。ただ、中学は友達と成績の順位を競うの楽しくて、この頃だけは勉強しまくってました。
そのおかげもあって、高校は地元の進学校に入ります。
・・・が、これが大失敗。
もともと頭が良いわけでもなく、むしろ記憶力はノミ級に悪いので、ここで一気に落ちこぼれました。
周りは本当に頭の良い人ばかりで、僕はどんなに頑張っても成績が上がらずモチベーション激下がり。学年で最下位争いをするだけじゃなく、全国平均の偏差値も50以下になってました。
勉強時間は人よりも多かったと思うので、ここで悟りました。
「あ・・・おれは頭も良くないし要領も良くない、平凡な人間なんだ」と。
最近の流行りの言葉であれば自己肯定感とでも言いますか、もともと昔も今も「優れているかなんて、どうでもいいじゃん。人それぞれだし」っていう感覚で生きている人間なので、悲観もしなかったですが。
大学生活と地獄の就職活動
三流大学ではありましたが、何とか大学には入ることができました。
同級生はエリートばっかりだったので国公立に行く人が多かったですけど、僕はそんな偏差値の高い大学には入れないので神奈川の私立大学に行きます。
(実はこの「神奈川」の「私立大学」っていうのが、後々大きな問題になります)
神奈川と言っても、横浜や湘南みたいなイメージとは大違い。僕が通っていたキャンパスは「湘南キャンパス」という名前だったんですが、湘南までは1時間以上かかり周りは山だらけでした。むしろ富士山が見えてましたね。
完全にだまされました。
自然が好きなので、結果としては良かったんですけどね。
大学生活もいわゆる一般的な大学生のイメージ通り、勉強は赤点や留年にはならないようにそこそこやる。そんな生活。

僕の場合は音楽に熱中します。この時の友達とは、今でもスノボやアウトドアをする仲間ですから、すごく貴重な4年でした。
そんな大学生活でしたが、とうとう終わりが近づいてきます。
地獄の就職活動です。
この時代は超就職氷河期。30社受けて1社も受からないのが、当たり前の時代です。
前髪が眉毛にかかってた時点で、もう絶対に採用されません。中学生かよっていう。就活生の分際でシュッとしたスーツもNGの時代です。おぞましかった・・・。
僕は機械系の学科だったので、就職先はメーカー関連の会社を選ぶのが一般的です。
でもメーカー系って転勤が多いんです。実際、大学時代の同級生は、海外転勤をしている人も何人もいます。
「自分が住む場所を、他人に決められるなんて意味不明」
って思っていた僕は、転勤がほとんどないシステム系会社ばかり面接を受けていました。
とうぜん就職活動は苦戦し、 大学の就職課に呼びだされます。就職課の職員と、研究室の教授に囲まれての面談です。

どういう会社を受けているの?

システム系です

なんで?

住む場所は自分で決めたいからです

そんなんで選んでいるから決まらないんだよ!
驚きました。
もちろん、心から親身になって言ってくださったのもあるとは思います。
でも、価値観は人それぞれ絶対に違うはずです。こちらから助けてくださいとお願いしたならともかく、一方的に価値観を押し付けられるのは本当に理解できませんでした。
「僕の人生なんで僕の基準で決めます」
そう言ったら、教授にぶちギレされました。一歩間違えたら厨二病ですね。
とはいえ、たしかに当時は今ほど気軽に起業できる時代でもなく、就職が決まらないのは特殊でリスキーです。だから、大学側の言ってくれたことも理解はできました。
「自分で生きていく力がない=人生の選択肢の制限」
なんだなと、この時に強く実感しました。
「自分の意思で会社を選んだなら、従うのが当然。文句を言うなら自分がやめるべき」という変に堅い考えもあるので、自分でも苦労はするだろうなあとは思っていました。
すごく恐怖を感じたことを、今でもハッキリと覚えています。
就職、そして破産
色々ありましたが、何とかシステム会社に就職が決まります。大きな不満はないものの、先を考えると、かなり恐怖でした。
「この仕事を本当に何十年も続けたいと思える自信はあるのか・・・?」
「この職場や仕事内容や人間関係が本当に嫌になったら、その時はどうする?」
なんとなくヤバそうな雰囲気を感じつつも、明確な答えがないまま会社に通っていました。
そうやって過ごしていたある日、思いもよらない出来事が起きます。
誕生日の夜に、母親から一本の電話が。
「良い年なんだから、お祝いなんていらねー」と思って電話を取ったんですが、内容は僕が予測していたものとまったく違うものでした。
「自己破産することになったから・・・」
想像していた内容と真逆すぎて、驚きました。
「え!うちってそんなにキツかったの!?」 ショックよりも、これが素直な感想でした。
大学にも普通に通わせてもらっていたし、仕送りももらっていました。幼少期からも、裕福だとは思っていませんでしたが、貧しいなと感じたこともありませんでした。
だから、そんな状況をまったく察することができていなかったんですね。まったく情けない話です。
姉と僕が大学を卒業して社会人になるまでは、必死で隠してたんだと思います。父親と母親には本当に頭が下がります。
18歳まで住んだ家も売られることになります。

家にある漫画どうする?

置くところないから捨てていいよ
こんな話をしたことを、今でも鮮明に覚えています。
こうして愛読書「ついでにとんちんかん」「魁!男塾」「キン肉マン」をはじめとした小学生から集め続けてきた漫画コレクション500冊は処分されました。
今、母親は元実家の隣町で一人暮らしをしています。僕が帰省する場所はここ。
自分が育っていない見知らぬ家なので、帰省しても他人の家にいるような、居心地の悪さをいまだに感じます。
そうそう、数年前に帰省した時に、ふと自分が育った家を見たくなり、車で行ったことがあります。
育った想い出の土地には、まったく見知らぬ家が建ってました。10年以上経っているので、まあ当たり前ですが。少し切なくなりましたね。
退職を決意
その少し後、会社を辞めます。
人生の選択肢を強制的に絞られないためにも、自分の力で生きていけるようにしたかったからです。
力を持たないことは、ものすごいリスクだと感じたんです。
就職氷河期でしたから「会社を辞めるのはリスク」だなんて散々言われましたけど、僕からすると、将来イヤでもガマンして続けなきゃいけない状況になる方が何百倍もリスクでした。
その時点ではまだ「何がやりたいのか?」「何をするべきなのか?」「何が正解なのか?」はわかっていません。
とりあえず、失敗しまくっても良いから、色々なことをやって、色々なことを学んで、色々な世界を見て経験してから決めよう、と。
大学を卒業させてくれた両親には悪いなとも思いましたが、「自分の責任でやるなら、好きに生きれば良いよ」と反対はされませんでした。
まあ事後報告なので、何と言われても決断は変えなかったんですが、そう言ってもらえたのはありがたかったですね。
この時に経験した仕事の一つが整体師。

資格情報誌の「ケイコとマナブ」を読んでいたら 「整体師ならベッド一つで自由に開業!」って書いてあったので、すぐにスクールに通います。(ありがちですね)
生活費と学費のために、週6で毎日12時間の昼夜交代制の工場で月300時間くらいバイトをして、この時に流行っていた猿のイラストのラムネ(ピ●キー)を鬼ほど作りまくりました。
整体の学校は、深夜のバイトから帰ってから、寝ずに通っていましたね。
極貧生活と自由
整体師の時は店長も経験しました。
とにかくこの頃は超絶ビンボーです。週6勤務で手取りは13万円。
交通費も出なかったので、節約のためにバイクで毎日往復2時間半かけて神奈川から東京に通勤をしていました。
ヘトヘトだろうが雨の日だろうが毎日バイク通勤ですから「いつか死ぬな・・・」って思いながら通勤してました。
それを見かねたオーナーが「引っ越し代を貸すから、引っ越してきなよ」と言ってくれたので、東京に引っ越すことに。
毎月2万円をオーナーに返済するので、手取りは11万円に減りました(笑)

住んだ家は超オンボロ。
4畳半で、建物が歪んでいて窓を開くことすらできません。草木が生い茂っていて、友達からつけられた名前は「もののけの館」。
高円寺というところに住んでいたんですけど、ここは物価が安いんですね。
とんねるずが若手の頃に通っていたハンバーグ屋があるんですけど、すごく安いんです。
ハンバーグ、目玉焼き、サラダ、ライス、味噌汁がついてなんと400円。ハンバーグは目の前のレンジでチンして出されますけど(笑)
300円のラーメン屋もありました。100円でチャーハンがつけられるんです。ジャーから出てきますけど(笑)
オーナーがお客さんを紹介してくれて、仕事後にアルバイトとして訪問で整体をやりに行ったこともありました。某有名ストリップ劇場の楽屋に(笑)

とうぜん、遊ぶお金なんてありません。
週1回の休みは、古本屋で100円の本と缶コーヒーを買って、公園で一日中読書をして過ごしたりしていました。
なかなか悲惨な生活のようですが・・・ 自分の意思で選んだ選択だし、そんなに苦痛とは感じていませんでした。イヤイヤ会社に通う方が、僕にとっては何百倍も恐怖でしたしね。
やっぱり「自分の意思での選択」が何よりも本当に大事なんだなと、あらためて実感します。
その後も数年かけて、いろいろな仕事をしたり勉強をしてきました。当時はまだ数が少なかった、Webデザイナーになろうと、デザインの専門学校に通ったこともありましたね。
たどりついた答え
こんな生活を数年過ごしていくうちに、自分の中で「ある結論」が見えてきました。
それはこういう考えです。
- やりたいことなんて、いつ変わるかわからない。
- やりたいことでも、人間関係や環境によっては嫌いになるかもしれない。
- やりたいことでも、生活ができなければ続けられないかもしれない。
であれば・・・
「どんなビジネスをしても、どんな環境でも、仕事の成果や働き方を自由に選べる力を身につけることが結局は最強なんじゃないか?」
これが結論でした。
つまりマーケティングです。この結論が、人生を決めました。
マーケティングで激変した人生
こうして、マーケティングを独学で勉強しはじめます。2004年頃のことですね。
当時は、まだコンサルタントですら「SEO」なんて言葉を知っている人は、ほとんどいないような時代でした。スマホもなく、Facebookもほとんど認知もされていなくて、mixi全盛の時代ですからね。

YouTubeだってほとんど使っている人はいませんし、今みたいに無料の情報もほとんどないので、お金を払って学ぶしかありません。
なんとかお金を貯めて、何万円もする教材を買ったり専門家に教えてもらって勉強してました。
さらに節約もしたし、貯金や遊びよりも、勉強への投資を優先しました。すべては将来の自由のために、今頑張ることが大事だと思ったからです。
その後に縁があって、あるマーケティング会社で働くことになります。
2つ年下の社長、そして僕を含めたアルバイト5人の合計6人のベンチャーです。
最初はアルバイト契約だったので、まだ生活は楽じゃありませんでしたが、僕にとっては最高の環境。
社長がマーケティングマニアでしたから、当時の日本で販売されていたマーケティング教材はほとんどオフィスにありましたし、海外から最先端の情報を仕入れまくっていました。
社長もスタッフもみんなマーケティングが大好きでしたから、いつも23時くらいまで残って、情報交換や勉強しあったりもしていました。
いやー、この時は本当に楽しかった。
そして、スタッフが少ないですから、自分で積極的に学び、自分で実践するしかありません。
とくに僕はなおさら。
マーケティングのスキルも知識も実績もほとんどなかったからです。他のスタッフは、マーケティング歴が長かったり、デザインができるなど自分の得意分野を持っていたんですね。
つまり、
社長 + 優秀なスタッフ4人 + 落ちこぼれの僕
という関係。
ガチで社長に「独自ドメインってなんですか?」って聞いてましたからね。今とは時代がまったく違うとは言え、マーケティング会社のスタッフとしては低レベル過ぎました。
なので、とにかく必死でした。最初はほとんどが雑用ですが、本当に実力不足なので不満はありません。

少人数の会社で「使えないやつ」と思われたら終わりなので、社長たちに頼まれた仕事を超絶スピードで毎回全力で終わらせて「次の仕事ないですか?」って、いつも自分から聞いてました。
ありがたいことに皆すごく優しくて良い人たちでしたし、頑張った甲斐もあって、入社2〜3ヶ月後くらいにはどんどんと重要な仕事を回されるようになります。
- 一日20個のサイトを作る。
- 数百個のサイトのSEOをする。
- 入社して3ヶ月後にはコンサルやセミナー講師をする。
- 外注やパートさんを何十人も1人で管理する。
- 知識0なのに1人でネットショップを立ち上げる。
- 毎月2,000万円以上のリスティング広告を運用する。
- 読者6万部のマーケティングメルマガを執筆する。
この時の経験は、今も大きな資産になっているので、当時の仲間には本当に感謝です。
確信したマーケティングの力
正直、最初は「マーケティングを勉強した方が良いんじゃないか?」って程度の推測でした。
Webマーケティング自体が本当に全然普及していませんでしたからね。成功事例だって、今と違って全然聞かない時代です。
でも段々と、それが確信になってきます。
マーケティングの力はエグくて、働いていた会社も短期間で急成長をしました。
入った時は、事務所は古いマンションの一室だったんですけど(面接のテーブルはダンボール)その後は2年で2回もオフィスを移転しました。

社員も0人でしたが1年後には社員20名以上。アルバイトやパートさんを含めれば40〜50名以上はいました。
僕たち初期メンバーも、この頃には正社員として管理職を任され、一気に後輩や部下も増えました。
たった10年くらい前には、ダンボールの机で面接をした会社とは思えませんね(笑)
でもそんな短期間で一気に成長するくらい、マーケティングのパワーはすごかったです。
会社では、コンサルティング・マーケティング代行・起業副業支援など色々なことをやっていましたから、クライアントさんたちが数ヶ月で売上が数十倍になったり、0からのスタートで一気に月商数千万円のビジネスを構築するなんてことも珍しくありませんでした。
こういうことを体感していくうちに
「マーケティングを学ぼうって決めたのは、間違った選択じゃなかったんだ・・・」
そんな気がしました。
1年目の時点ではまだアルバイトで収入は低かったですし、貯金もあまりありません。
それでも将来への不安は一切なくなりました。
お金が必要になったら何とか自力で稼げばいいし、何かやりたいことが見つかれば、マーケティングを使ってそれをビジネスとしてやればいいからです。
極貧時代を10年近くも過ごしましたが、貧乏生活を覚悟して決断した時のことが、ようやく報われた気がしました。
起業で変わった人生
安定は保証されていましたし、仲間とも仲は良かったです。仕事もそれなりに自由にやらせてもらえていました。
ただ、管理職よりも、もっと現場でやりたいという思いもありました。
元々は組織も得意でなければ、出世したり会社を大きくしたいという向上心がある人間でもありません。そんなやつが管理職では、さすがに会社的にもマズイでしょう(笑)
なので退職し、独立しました。

95%以上の会社が10年存続しないと言われている中、おかげさまで今期で11期目です。
もちろんマーケティングを身につけていたからといって、まったく苦労がなかったわけじゃないですし、失敗も色々としてきています。
実は起業1年目にあるハプニングがあり、とつぜん売上がほぼ0になったことがあります。
当時、リスティング広告の代行をメイン事業にしていたんですが、Googleがアカウント削除を容赦なく突然しまくった時期があり(悪名高いGoogleスラップと言われた事件)、クライアントのアカウントがほぼ全滅したんですね。
広告が出せないんですから、いただいていた代行手数料も0です。起業直後の毎月数十万円の売上ですから、そら焦りました。
でもマーケティングを身につけているおかげで、「まあ、最悪どうにでもなるか」感覚もありました。実際、ハプニングがある度に、毎回マーケティングの力でどうにでもなりました。
そしてマーケティングによってビジネスの幅が広がり、これまででは考えられなかった色々な経験をすることができています。









色々な経験をさせていただいた結果、「やっぱり自分は華やかな世界ではなく、普通なのが好きなんだな」という結論になりましたが。
仕事だけでなく人生トータルで楽しく生きることを目標としていますから、遊ぶことも犠牲にしません。
自然が好きなので、海や山には毎週のように行っています。
実はスノーボードのデビューは36歳なんですね(遅)

社会人1年生の頃に、スノーボードが流行りはじめました。同級生はみんな社会人になって、お金に余裕もできて、自分の車や道具を買ったりしてスノーボードをしていました。
スノーボードは自分の道具を持っていても交通費とリフト代で1回1万円くらいかかります。スーパー貧乏時代の僕からすると、そりゃもう大富豪、いえ貴族の遊びなので参加できるはずがありません。そもそも休みもなかったんですが。
マーケティングを学びながら、お金にも時間にも少し余裕ができた30歳ころには、もう皆スノーボードは飽きたり結婚して子供がいたりで、引退してる人ばかりでした。
でも36歳の時に仲間内で「久しぶりにスノボやりたいね」って話になって、1から教えてもらうことになったんです。36歳で、リフトの乗り方や転び方からのスタートです。
つきっきりで教えてくれたTくんもKくんも、キャピキャピした可愛い女の子にならともかく、こんなおっさんを教えるのは楽しくなかったことでしょう(笑)
青春時代に遊べなかった分、狂ったようにスノーボードに行きまくりました。

親に毎年プレゼントをしたり、旅行に連れて行ったり、美味しいものを食べさせたり仕送りもできるようになりました。
今、母親は一人で暮らしていますが、仕事に疲れていたので定年前に辞めさせることもできました。
数年会っていなかった父親にプレゼントを送ったり、会いに行く時間や心のゆとりもできました。
学費の高い私立大学で仕送りももらっていましたから、破産の原因の一つは間違いなく僕にあります。親は当然そんなこと言いませんけど。
自己満足かもしれませんけど、少しでも恩返しをできるようになったのは良かったと感じています。
ただ本音を言えば、僕が稼いだお金を親に使うのではなく
「倒産がもう少し遅ければ・・・今なら僕がいくらでもマーケティングでうちの事業を救えたのに」
この想いの方が強いのが本音です。
ただいずれにしろ、今の自分があるのは本当にマーケティングのおかげです。
「成功」なんて言葉はおこがましいですしあまり好きではないのですが、それでもそれなりにはビジネスもプライベートも自分が望む自由な選択ができるようになったからです。
DIYを作った想い
僕はマーケティングのおかげで人生が変わりました。
だから、自分と同じように理想を求めて起業をした方たちにも、この力を手に入れてもらいたくDIYを作りました。
大きな組織ではなくて、サロン経営者やコンサルタントや講師の方など「ひとりビジネス」の経営者の方を対象に支援しているもの、それが理由です。
ひとり経営者は、どちらかというと自由を求めて起業した方が多いと思いますが、
- 売上のために安売りをして、仕事が楽しくなくなっている。
- 集客作業に追われて、毎日時間と心を消耗してつらくなっている。
- 自分のサービスや技術の価値を理解してもらえず、お客さんとの良い関係が作れない。
- 仕事がつらくお金も時間も余裕がないので、プライベートも心から楽しめていない。
現実にはこういう方が多いと思いますし、実際こういうご相談をたくさんいただきます。
そして何より僕自身も同じ経験をしてきていますから、すごくそのつらさがわかります。
さっきお話したように、起業してからだって、すぐにずっと順調だったわけではないですからね。安売りも、価値も感じてもらえないことも、時間と心の消耗も、たぶん人の何倍も経験しまくってきました。
でもその度に、マーケティングで改善をしていって、今があります。
今でこそ人にお教えする立場になっていますが、進んできた道が少しでも違っていたら、僕もおそらく同じようになっていたと思います。
僕は平凡な人間で、センスもカリスマ性も忍耐力も根性も、何一つ人並み以上に優れたものを持っていないからです。
「有名になりたい」「大儲けしたい」「会社を大きくしたい」こういう願望もほとんどありません。
欲しかったのは、ただひとつ。
「自由な選択肢があって縛られない自由」
これだけです。
「お金」「時間」「心・体の自由」の自由な選択肢を増やし、「理想の人生」の自分の力で作る。
これを目指すのがDIYというサービスです。
クライアントさんからは「今月は売上が●円になりました!」「●人が集客できました!」というご報告をしょっちゅういただきます。
もちろんこれはこれでうれしいのですが、僕的にはこれは過程というか手段にしか過ぎないので、「●のストレスがなくなりました!」「楽しいです!」「●ができるようになりました!」というご報告の方が実は何倍もうれしいんですね。
事業の拡大、プライベートの充実、目指すものはそれぞれが自由に選んでいただければよく、僕はそこに関心はありません。選択の自由を持てるようになっている状態がうれしいのです。
あなたに願うこと
DIYは安くはありませんし、サポートできる人数は限りがあります。なので、あなたに無理にDIYに入ってもらいたいとは思いません。
他にも素晴らしい学びの場はあるでしょうし、あなたにとって僕よりももっと相性の良いものもあるかも知れません。
僕のやり方だけが正しいなんて1mmも思っていませんから、それはどうでも良いんです。
ただ、もしあなたが望むべきゴールがあるのでしたら、そこに向かう正しい道を選んでもらいたいなと思います。
「やっていることを変えずに、結果が変わることを望んでいるなら、それはもはや狂気だ」
相対性理論で有名なアルバート・アインシュタイン博士が言った、僕の好きな言葉です。
「このままでは理想のゴールにいかないな」と思ったら、思考・行動・選択を変えることが、何よりも大事だと思っています。
同じ「ひとりビジネス」をする仲間として、楽しいビジネス、そして楽しい人生を送ることを願っています。
それでは長い時間、読んでくださりありがとうございました!
wombase株式会社 真井良幸